人の記憶は簡単に嘘をつく 「存在しない記憶」
「存在しない記憶」(偽の記憶) とは、一般的には脳の錯覚による虚偽記憶を指します。 子供の頃に辛いことやそうなって欲しいと思いながら叶わなかった出来事があって、それを忘れたいとかそうであったと思いたいあまりに無意識に記憶を改竄をするなどが代表的です。
あるいは同じ嘘や 盛った 話を何度もしているうちに自己暗示にかかり、それが実際にあったことのように記憶されたり、他人から聞いた話やたまたま見ただけの他人の写真、マンガ や アニメ、ドラマや映画で観たことを、まるで自分が体験したもののように記憶して人に話したり、本人が懐かしい思い出として心に持ち続ける場合もあります。 過去に何らかの悪事を働き、良心の呵責に耐えかねて、自分で自分に嘘をつくこともあるでしょう。
これが転じ、ありえない話や希望的観測を述べた後に (存在しない記憶) とかっこ書きして、ネタ として使われたりします。 「こう見えても小学生の頃はスポーツ万能かつ勉強もできて女子からモテモテだったんだ (存在しない記憶)」 みたいな感じです。
一方、マンガ 「呪術廻戦」(2018年) では第16話、アニメ (2020年) では第14話にあたる呪術高専の東京校・京都校の交流会の中のあるエピソードでナレーションとしてこの 「存在しない記憶」 が登場します。 存在しない記憶や偽の記憶という 概念 自体はそれ以前からもちろんありましたが、呪術廻戦が特大のヒット作となったこと、使い勝手の良いキャッチーな言い回しでもあるため、以降はこれを 元ネタ とする呪術廻戦用語として、その後はそれを転用する形の ネットスラング としてもよく用いられるようになっています。
なお 「呪術廻戦」 の 物語 が進む中で、この言葉が使われたあれこれがその後どのようになったのは詳しく述べると ネタバレ となるため、ここでは当面の間触れません。
人はなぜ存在しない記憶を作り、それにすがるのか
人は幼少期のようにまだ十分に心身が成熟していない時期、あるいは心が弱っている時に、自分の外や中からのストレスを緩和して心を守るため、想像上のものを事実として受け入れたり 妄想 をありのままのものとして記憶してしまうことがあります。 例えば強い孤独を感じてそれに耐えきれずに想像上 (イマジナリー) の友達を作り上げてそれと遊んだり、その記憶を実際にあったことだと感じるなどです (イマジナリーフレンド)。 親から理不尽な虐待を受け続けた子供が、その理不尽さが理解できず、また親を悪者にもできずに混乱し、自分が悪いのだと思い込んで 「悪い自分を見放さずに守ってくれた優しくて正しい親」 という正反対の美しい記憶になってしまうこともあります。
人の記憶などはいい加減なもので、ある程度は操作も可能で、かつ無意識下でもどんどん形を変えたり、一度は失われたりそれがすぐに復活したりもします。 一方で、あまりに強いストレスを受けると トラウマ となって心の奥底にいつまでも居座り、何かを発端として蘇る (フラッシュバック) こともあります。 犯罪や事故、自然災害などの被害者は、これで苦しんでいる人も大勢います。
こうした記憶のいい加減さというか不思議さは、ある程度の年齢になると昔のことを忘れたり勘違いしがちだとの体験を通じてだんだんと身に染みて理解できるようになり、「自分の記憶などあまり当てにならんな」 とある程度は判断できるようになります。 とはいえ過去の記憶の美化や誇張 (思い出補正) などはどう頑張っても生じてしまいますし、誰しもが持つ人の心の 「機能としての バグ」 なのかも知れません。
人は過去の記憶があってはじめてその人になる
記憶やそれを取り巻くあれこれは、SF においてしばしば重要な テーマ や お題 となっています。 人が自分と他人とを区別できるのは自分の外に自分以外の世界があり誰かがいるからで、それと自分とを比べることで自我や意識も形成されます。 そしてそれらはその場その場の感覚によって芽生え、過去の経験の蓄積、すなわち記憶によって作られ、また強化されるものです。
従って人の意識とは何か、自我とは何か、自分とは何か、ひいては人間とは何かを語る時、記憶とか思い出はそれらを紐解く大きな入り口のひとつともなるでしょう。 例えばロボットやアンドロイドが自我や精神を持つことができるか、できるとしたらそれは作られた瞬間か、それともしばらく経ってからか。 人工知能や生命体に自我を持たせるために作り物の偽の記憶を人工知能に植え付けるなどは、哲学的な問題を含めて SF ではしばしば 設定 として用いられます。 一般でも広く知られているのは映画 「ブレードランナー」(1982年) におけるレプリカントのそれでしょうか。
なお人が死ぬ時に過去の出来事が次々の蘇る現象を走馬灯と呼びますが、恵まれない貧しい記憶しかない人が、せめて最期の時くらい華々しい走馬灯を見ながら笑って 死に たいと偽の記憶や妄想を頭に叩き込むというネタがあります。 これは 走馬灯デザイン と呼びます。





