なぜ創作物に登場する天才の周りの人は無能ぞろいなのか…「凡天問題」
「凡人 (凡才) が描く天才問題」(凡天) とは、マンガ や アニメ、小説といった創作の物語に 天才 が登場した際に、その天才が天才だとは思えない程度の平凡な描写に留まる、あるいはその天才を引き立たせるため、周囲にいる キャラ がことさらに 無能・無才・愚鈍に描かれることを揶揄する 概念・言葉です。
実在の天才の物語であれば、その天才の天才らしいエピソードを紹介すれば説得力やリアリティもあってそれで済むのでしょうし、また実在人物であることから 読者 や視聴者もその人物が実際に成し遂げた功績を前提に納得も容易でしょう。 しかしこれが創作物の場合は、「作者 の力量の範囲」 で天才のキャラ造形やエピソードを創作して納得させなければならないので、かなり厳しい条件です。
一般的には 「作者の才能以上の才能を持つ登場人物を描くのが難しい」 以上、これは避けて通れない問題だと考えられているようです。 「凡人が天才を描くのは難しい、だって凡人だから」 という訳です。
もちろん 「凡人から見た天才像」 として天才を描くことは可能でしょう。 なぜならその作品を見る読者や視聴者だって、恐らくは作者と同じ凡人だからです。 凡人が思い描く天才を凡人が描いて凡人が見るのなら、何ら問題がありません。 しかしその天才が天才であるゆえん、すなわち天才的な閃きや歴史に残るような偉大な功績を紹介するようになると、その才能の ジャンル や分野によっては、とたんに説得力やリアリティがなくなるでしょう。
場合によっては、「天才と狂人は紙一重」 といった俗なイメージに頼りすぎ、天才というよりは、単に奇行に走るだけの変人になってしまう場合もあります (いわゆる マッドサイエンティスト などとは違った、作者の力量不足からくる陳腐なケースを指しますが、一周回って むしろギャグとしてそうした状態を描く場合もあるのでわりと複雑です)。
なお逆に、作者の頭が良かったり教養がありすぎるせいで、作中の無教養なはずのキャラ (チンピラや子供など) が、やたら頭がよく物知りに見えてしまう場合もあります。
天才の発想や功績を凡人が思いつくのは大変…
一口に天才といっても、それがどの分野・カテゴリ での飛びぬけた才能なのかによって状況が変わります。 例えば天才科学者などの場合、「タイムマシンを発明した」「科学史上に残るような未知の物質を発見した」「ノーベル賞を獲った」 という 設定 だけで、ある程度説得力を持たせることが可能でしょう。 現実問題として、そんなことができるような人は天才に違いないからです。
加えて科学とか物理とか数学などは苦手な人が多いので、適当な専門用語や数式などを散りばめれば、「よくわからないけど頭がよさそうだ」 と視聴者や読者を煙に巻くことも容易でしょう (もっとも おたく には理数系が多かったりもするイメージなので、専門外のことで安易に知ったかぶりをするとやぶ蛇になったりもしますが)。
しかしこれが、「天才画家」 とか 「天才歌手」 などになると、状況は一変します。 例えば天才画家なら、その作品は後世に残るような名画になるはずでしょう。 しかし実際にマンガやアニメにその絵を出したところで、その絵を描いた人が天才画家でないのなら、天才の描いた絵画に見せるのは難しいでしょう。 また 「天才歌手」 も、アニメやドラマでその役を演じる声優や歌手が歌声を披露した瞬間、化けの皮が剥がれることにもなるでしょう。
もっとも、歴史上の数多くの天才が、生きていた当時にはあまり評価されていなかった、すなわち周りの凡人が理解できず狂人扱いされ、没後や後年になってやっと偉大さがわかるようになるなどの形を利用し、「訳が分からない、でたらめな絵や歌」 でそれを表現することは可能です。 作中の別のキャラに 「前衛的だ」「凡人の私には何がよいのかさっぱりわからないが、天才の仕事はいつだってそんなものさ」 とでも語らせれば、同じ凡人であろう視聴者や読者も、何となくそれで納得してくれるのかもしれません。
また歴史ものの作品であれば、天才にまつわるこうしたありがちな シチュエーション を利用することで、この問題を回避することもできます。 例えば現代では義務教育で学ぶ レベル のエピソードでも、それが大昔の時代設定の物語ならば、「こんな時代にそれを知っていた」「発見した」 で天才性が容易にアピールできるからです。
誰でも知っている・思いつく戦術で天才軍師と云われても…
一方、より深刻なのは 「天才軍師」 とか 「天才司令官」 などでしょう。 物語の作者が必死に天才の閃きが感じられる戦術や戦闘指揮を描こうとしても、せいぜいが過去に実在する名将のそれをなぞるのが精いっぱいになったりしますし、敵の考えや動きを察知して行う奇策の妙も、創作物だけに単なる 「ご都合主義」 に見えてしまうでしょう。
それでもキャラを作中で天才として圧勝させるためには、敵を無能で間抜けな愚将に表現し、相対的な落差をつけるしかなくなりますが、それでは興ざめも甚だしいでしょう。 作品の内容によっては、むしろ天才を描くよりも、天才を効果的に引き立たせることができる魅力的な無能を描く方が難しいという状況すらあり得ます (それが難しいから、結果として天才を描くのも難しいという)。
天才を扱ったジャンルで大変なのは、ミステリーや推理小説などに代表される知と知のぶつかり合いをメイン テーマ とした作品も同様です。 天才探偵が狡猾で知能の高い犯罪者が仕掛けたトリックを、抜群の知力で推理し追い詰める描写は、作者に相当の知力がないと描き切れません。 その探偵が天才という設定なら、ライバルとなる犯罪者もそれと拮抗する才覚がないと面白くありませんし、それを描く作者にも相応の才能が必要でしょう。 もっと言えば、作者は天才の閃きを凡人にも天才だと分かるように説明しなくてはならないので 難易度 はさらに上がります。 いわゆる 「シーザーを理解するためにシーザーとなる必要はない」 のだとしてもです。
こうした表現で度々話題になるのは、三国志における蜀の諸葛亮 (孔明) のエピソードの数々でしょう。 一般に三国志と呼ばれる コンテンツ の 元ネタ の多くは、明代の通俗歴史小説 「三国志演義」 から生じている架空の話が多いのですが、天才軍師として活躍する諸葛亮には、現代人が見ても 「これは天才だ」 と思えるような 「凡人にもわかりやすい天才的エピソード」 に溢れています。 虚実入り混じりながらも 読者 を一発で納得させられる力があるのは、それが名作のゆえんなのだとしても、もっともっと驚嘆すべきだと思います (と云うか、古代中国の作家たちの想像力や創作力は、ちょっと人類史でも類を見ない豊かさだと思います)。