非合理で無価値なのか、それとも… 「精神論」
「精神論」(精神主義) とは、無から有を生み出し不可能を可能にしてくれる魔法の言葉です。 それは 「頑張れ」「負けるな」 といった個別の人間に向けた激励の形の場合もあれば、「絆」「助け合い」 といった集団や社会全体に向けた同調圧力を言下に秘めた美しい言葉になったり、あるいは 「死ぬ気でやれ」「何で出来ないんだ」 などと上手くいかない理由を精神力や 根性 の有無に決めつけ、対象を罵倒・非難し追い詰めるような攻撃的なふるまいとなる場合もあります。 やる気さえあれば何でもできる、精神的な力が現実や物質をも動かすといった意味になります。
一般に精神論は合理的思考からは対極のもの、古臭い前時代的な論、考慮する価値もないバカげた論だと評価されています。 とくに日本の場合、当時様々な国際情勢があったとは云え、合理的な思考ではありえないような愚かな判断をいくつも行い、結果として他国民へ災厄を与えただけでなく、歴史上最悪の苦しみを他ならぬ自国民にもたらした先の大戦の前や最中に多用されたことから、苦し紛れの愚かなものだと認識されていると云って良いでしょう。
同じような意味で使われる言葉には 「精神主義」 とか 「根性論」、あるいは 「非合理主義」 があります。 また日本においては 戦前・戦中の精神論を語る中で 「竹槍主義」 とか 「神風主義」 のように呼ばれることもあります。 対義語は 「合理主義」 や 「物質主義」 あたりでしょうか。
病は気から?…精神論も使い方
とはいえ、「精神論そのもの」 が全くの無意味な論だという訳ではありません。 少なくともそれを信じて受け入れられる人がいる限りは現実を動かす力になる場合もありますし、状況によっては火事場のバカ力などというように、気の持ちようだけで通常では考えられない力を発揮することができる人だっています。
また 病気 や怪我などは心理的な部分の影響も大きく、希望があればこそ治療に前向きになれたり、打ち勝つ気力が沸いてもくるものでしょう。 災害時に被災者同士が励まし合って生き延びたといった話もたくさんありますし、絶望してしまったらそこでおしまいという状況だってあります。 その意味ではオカルトじみた 「神頼み」「天運」 といった言葉よりはまだしも意味や意義がある言葉だったり論だったりするのでしょう。
「人事を尽くして天命を待つ」 というように、「精神論」 も、合理的でやるべきこと・やれることの全てをやり尽くし、それでも最後の最後の決め手に欠ける時にようやくすがることが許されるべきものだと云えます。 最初から精神論を振りかざす人の云うことを真に受けても現実は決して動かないし、むしろ 「俺は何もできないが責任は頑張れなかったお前らが取れ」 というような見苦しい言い訳の道具に使われてしまう場合もあります。 こうなるとほとんど論外です。
そもそも人間は合理的な存在なのか
合理的な判断が、しばしば非合理的な判断となる精神論より常に優れているのかについても議論があります。 「人はパンのみにて生きるにあらず」 と云いますが、何か重大な決断や判断、行動を行うとき、そこに 物語 や神話 (ストーリーやナラティブ) が必要な場合も多いでしょう。 そもそも人間そのものが、さほど合理的な存在ではありません。 腹が満たされ何不自由ない生活をしていても 不幸せ だと感じる人もいれば、飢えに苦しんでいても自らの信条や信念に従っているとの高揚感から幸せを感じる人もいます。 人によって感じ方は様々です。
またいち個人の中にあっても、論理的に整合せず矛盾に満ちたものを持っているものでしょう。 人は感情の生き物だし、そこには矛盾が常にあって、またそうした人間が集まって作られているのが組織や地域や社会なのですから、そこにも矛盾が溢れています。 孟子の 「天の物を生ずるや之れをして本を一とす」(世の中には矛盾や相反するものがあるが、全ては天が作ったものなのだから根本は同じもの) とか吉田松陰の 「情の至極は理も亦至極せるものなり」(情を極めれば道理ともおのずと一致する) ではありませんが、これらアジア的な道徳観から見ると、純粋な自然現象ならともかく、人の意思が関わる事象で単純に情と理をに分割し一方のみを是とする論も乱暴に感じます。
運やコネを除いた人個人の能力や性質を分類すると、おおよそ知力・体力・精神力の3つに分けられると思いますが、精神力の伴わない知力・体力はさして役には立たず、まず精神力 (それは精神性とか忍耐力、勇気や道徳、倫理観と言い換えても良いですが) があってこそというのは、儒教などに代表される思想や哲学、あるいは宗教とも通じる部分があります。 心技体というやつですね。
戦前や戦中の日本のように、それが行き過ぎて 「精神力さえあれば弾丸がなくても戦える」「アメリカ兵など、いくら物量を誇っても精神がたるんでるから役に立たない」 といった 無能 な上層部による責任逃れ、苦し紛れの言い訳に使われるのは論外ですが、それを否定したいがあまり、精神論的なものを全否定するような幼稚な合理主義や科学技術礼賛に偏り過ぎるのも、これはこれで逆の意味で危ういものでしょう。
人間が非合理的な存在であれば人間が作った組織や社会、規律も非合理的なものに留まったりその面影をいくらかは必ず残すものとなります。 それを完全に防ぐ方法は人間に非合理的な部分がある限り難しいでしょう。 行き過ぎた合理性や物質主義は、時として冷酷で非人間的な厳しくて辛いものになります。
時代錯誤の軍隊的指導とか、全寮制のスポーツ名門校のような過酷学校のスパルタ式指導、あるいはブラック企業の無理難題や やりがい搾取、上下関係に基づく いじめ などは表面上は次第に減りつつあります。 近年では精神分析や医療としての科学的根拠を持つメンタルトレーニングといった分野も広がっています。
恐らくは、非合理性と合理性、情と理、精神と物質とを人間にとって心地よく両立させるバランスの探求と、その使い方こそが事の本質で大切な部分だと云えます。 別の言い方をすると、精神主義や合理主義そのものが問題なのではなく、一方に偏り過ぎる極論が全ての過ちの元なのでしょう。
古いものは全部迷信・精神論? 生活の知恵の否定にも
ちなみに若い人の間では、古臭く感じられる生活の知恵・暮らしの知恵といったあれこれを、根拠のない精神論みたいに感じたり避けたりする傾向もあります。 例えばしゃっくりを止めるために 舌 を引っ張るとか両耳を押さえるとか、冬の乾燥肌やあかぎれ・ひび割れ対策でワセリン塗って手袋とか、手についた油汚れを微量の砂糖ですっきり落とすとか、ある年代だと当たり前にやっているようなあれこれに対する不信感や忌避感情ですね。
これらは知らない人から見ると、邪気祓いのおまじないや迷信、歳時的な風習、あるいは民間療法との区別がつけづらいですし、「そんなんで治るわけないでしょ」 みたいにバカにされがちです。 効く効かないはもちろん個人差もありますし、表面的な自覚症状とは別の深刻な原因や異常が身体に隠れている場合もありますから、鵜呑みにしてそれで済ますのも危険なものです。 しかしこれら先人の知恵には根拠があるものも多く、実際にやってみるとちゃんと治ったりもします。
核家族が多い中、小さい時におじいちゃんおばあちゃんといった年配者との交流がなく、親がすぐに病院や薬に頼るような性格の場合、その影響を強く受けることはありそうです。 とはいえ、素人判断でよくわからない応急処置をするべきではないのは大前提ですし、できるだけ早く病院や適切な薬に頼るのは全く正しい行為なので、このあたりの判断は難しいでしょう。 年配者が明らかな迷信や時代錯誤の対処法を 「これで治るから」 と 老害 丸出しで執拗に奨めてきて症状の悪化を招くこともありますし。
筆者 は医療関係者でもなければ他人の健康に責任を負える立場でもないので、ここで具体的にあれが効いた、これが良いなどと述べるつもりはありませんし他人に奨めることも一切しませんが、先人の知恵侮りがたしとは常々感じるところではあります。 不安ならば ネット で根拠があるかどうか公的機関の情報を見て調べたりしつつ、人生のノウハウを積み重ねたりはしたいものです。