「謝ったら死ぬ病」 の罹患者が最後に行いがちな 「〇〇に叱られた」
「〇〇に叱られた」 あるいは 「〇〇に叱られまして」 とは、何らかの トラブル や問題発言・行為で 炎上 し、社会的に大きな批判に晒された人が、謝罪をする際に冒頭に用いる言い繕いや言い訳のためのフレーズです。 例えば 「妻に叱られた」「子供に怒られました」「家族から指摘されました」「友人に悲しい顔をされて諭されました」 といった具合です。
自分の起こしたトラブルや問題発言・問題行為を謝罪するなら、「不見識でした」「すみませんでした」「反省します」 だけで良いはずです。 そこにわざわざ 「誰かに叱られた」 という前置きをするのは、「別に世間から批判されたり 叩かれた から謝るんじゃない、自分の大切な人からそう云われたから謝るだけだ」 との強がりや悪あがき、未練がましい気分の発露なのでしょう。 また妻や子供、家族と云った身近な存在から叱られてしょんぼりする様をアピールすることで、親しみやすさ庶民派っぽさをアピールしたり、批判や炎上が家族や大切な人に飛び火するのを防ぐために使う意味もあります。
なお女性問題や女性差別問題では 「妻や娘に叱られた」、差別問題なら 「被差別者である友人 (例えば外国人や障碍者など) に叱られた、たしなめられた」、マナー 違反やルール違反なら 「その場の管理者や業界の大御所に叱られた」 などと、当事者や当事者と同じ 属性 の人物を持ってくるのも お約束 の しぐさ です。 これは 「既に当事者に叱られてその場で謝ったのだから、無関係な人、部外者はもう口を出すな、批判するな」 との メッセージ が込められているのでしょう。
「謝罪」 ではなく、「叱ってくれた身内への感謝」 の形が大事?
謝罪の際にこうした言い回しをする人は、日ごろはあまり謝らず、また イキっ て威勢の良い攻撃的な話ばかりする人が多いものです。 いわゆる 「謝ったら死ぬ病」 に罹っていて、自分が悪いのはわかってるし、わかっていなくてもここで謝らないと騒動がもっと大きくなることくらいは理解しているけれど、どうしても謝れない、人に弱みを見せたくないと思うような人たちです。
「身内に叱られた」 という本当かどうかわからない話を盾に、「身近な人に諭されて心を入れ替えた自分」「家族や大切な人のために頭を下げている自分」 そして 「謝罪というより叱ってくれた身内へ感謝する自分」 を前面に持ってきた謝罪という形なら、ギリギリ自分の自尊心やプライド、対外イメージを守れると判断した上での言い回しなのでしょう。 場合によっては 「近親者から叱られた被害者」 の顔だって、面の皮の厚さによってはできるかもしれません。
この言い回しには前述のとおり 「身内や当事者に叱られた」 を罰として既に受けているとの免罪アピールも感じられ、当然ながら ネット などでは 「往生際が悪い」「謝るならすっきり謝れ」「大人げない」 などと批判されがちです。 またトラブルの種類によってはそれが発端で逆に家族などへ批判の矛先が向かうこともありますが、ともあれ政治家や企業経営者、コメンテーターや インフルエンサー といった 意識高い系 で強者の側にいる人間の最後の負け惜しみとして 認知 されるようになっています。
「まぁまぁ、本人も反省しているようですし」 という免罪
同じ言い回しはメディアなどに登場しない一般の人の中でも、昔から日常でたまに接することがあります。 例えば男性の女性差別が発覚して周囲から責められたとして、しょんぼりとした顔で 「妻にこってり絞られた」「娘が口もきいてくれなくなった」 とでも言い繕えば、それ以上追求するのは野暮といった考え方をする人は多いでしょう。 子供っぽく幼稚な物言いだとは思いますが、問題の種類によっては 「まぁまぁ、本人も反省しているようですし」 で、許されるようなケースもないわけではありません。
これをメディアの前で行えるメンタルの強さは驚きますが、どうせ謝るならすっきり謝った方が周囲だけでなく本人にとってもプラスになるだろうに、いろいろと拗らせていると大変だなぁという気分もしてきます。 もちろん口先でいくらお詫びをしたとしても、本当に反省しているのか、心からの謝罪なのかどうかは、結局のところ本人にしかわからないことではあります。 しかし保身や言い逃れを謝罪の前に持ってくるという選択や姿勢を示した時点で、その真意を疑われても仕方がない状況でしょう。