「欧米では〜」 って、それホント? 「出羽守」
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で、でたーwww出羽守奴ぅwwww (寐津菟かき子) |
「出羽守」(では (わ) のかみ) とは、主に欧米先進国と日本とを引き比べて 「海外の方が優れている、日本はダメだ」 といった意見をことさらに吹聴するタイプの人々を侮蔑的に指す俗語のひとつです。
「日本以外の外国では〜」「欧米などの先進国では〜」 などと 「〇〇では」 という フレーズ をまくら言葉のようにやたらと使いがちなので、ダジャレの当て字として 「出羽守」(昔の官職名、出羽の国 (現在の山形県・秋田県) の管轄官) と揶揄するようになりました。 より明確にするため 「海外出羽守」 と呼ぶこともあります。
扱われる テーマ は様々で、政治や経済、文化や慣習などありとあらゆる分野の話題で登場しますが、とりわけ 人権 や 環境 に関する問題、平和や 軍事、歴史、あとは ファッション やライフスタイルに関する話題で使われるケースが多いようです。 ネット でよく使われる言葉ですが、別に新しい言葉や ネットスラング ではなく、揶揄の表現としてはそれ以前から存在していました。
もちろん議論に先だって第三者の意見や海外の統計データ、自身の体験談など何らかの根拠や事例を示すのは建設的な話をするために望ましいことです。 程度問題ではあるものの、外国の優れた知識や技術を貪欲に取り入れたからこそ現在の日本の繁栄もあるわけで、出羽守の全てが悪いわけではありません。 しかし持ち出した外国の話に信憑性が乏しかったり都合の良い部分だけを抜き出しただけ (チェリーピック) の場合、さらには日本や他人を殴るための棍棒としてのみ用いられるのなら、批判された側は納得がいかないでしょう。 日本の場合、俗に 「他人や外国の目を気にしがち」 その結果として 「外圧に弱い」 とされますし、海外事情を知らない人が多いうちは、真偽不明の 「〇〇では」 にも、それなりの神通力はあったのかも知れませんが、時代を経て 雑 すぎる出羽守が増えると反発も強くなります。
なお似たような構造の言葉にはこの他、「もう日本は終わりだ」 を連呼しがちな尾張守、「誠意を見せろ」「誠意を持って対応」 の征夷大将軍があります。 また歴史問題や軍事関連の話題で 「海外からは〜」「アジアの国々では〜」 と数多くの国々かのように誘導しながら実際は中国・韓国・北朝鮮の3ヶ国のみという状況は、ネットスラングで 特定アジア (特ア) と呼ぶこともあります。
類似の話し方として、小さな子供がやりがちな 「〇〇ちゃん家では〜」 があります。 何か欲しいものがあってそれを親にねだる時に、「〇〇ちゃん家では買ってくれた」「持っている」 みたいに他人を引き合いに出す話し方ですね。 親を説得する力がないので、外部の話で権威付けしようとするわけです。 この場合の親の反論は 「うちは〇〇ちゃん家とは違う」 あるいは 「じゃあ〇〇ちゃん家の子になりなさい」 あたりですが、これは出羽守の場合も当てはまります。 「その国と日本とでは状況が違う」「そんなに日本が嫌ならその国に行けばいい」 です。 どちらの言も子供っぽい不毛なものですが、議題によってはその程度の レベル の話でしかないということでもあるのでしょう。
「日本すごい」 と 「海外の反応」
逆に外国人の目や意見を日本賛美のダシに使うことは、「日本すごい」 の他、「海外の反応」 と呼んだりします。 海外の 掲示板 などの レス や コメント を引用する形で触れられ、もっぱら日本の 治安 の良さや礼儀正しさ、ルールを守るまじめさ、街の清潔さや公共交通機関の正確さ、日本製品の高品質などを絶賛する内容が多いでしょう。
出羽守と日本すごいは正反対の 概念 ですが、方向性が異なるだけで基本的には同じものと感じられるかもしれません。 もちろん同じであってもどちらにも言い分はあるのでしょうし、信頼に足る客観性やより良い日本にしたいという善意があるのなら、どちらの論にも意味や価値があります。 ただし順番は大切で、日本すごいとか海外の反応とかは、出羽守や日本を批判する文脈での海外の反応のカウンターや ミラーリング として生じがちだというのは注意が必要でしょう。 日本すごいが自画自賛すぎて キモい という意見もありますが、先に海外の話をして日本を貶したのはそっちだろ、というわけです。
人権・福祉・環境・平和・軍事・歴史認識…日本は遅れてます!
出羽守がよく用いる参照先としては、人権や環境全般では EU (ヨーロッパ全般)、福祉や教育の話なら北欧、とくにスウェーデンやデンマーク、フィンランド、平和や軍事ならスイスやコスタリカ、歴史問題ではドイツ、及び韓国や中国、経済ならアメリカ、ファッションならフランスやアメリカあたりが多いでしょう。 その他、国連の各委員会の勧告や、NGO・NPO ら国際的な各種団体による統計・指数データなども金科玉条のありがたいもの、日本人が尊重すべきものとして参照されます。
冷戦時代には旧ソ連を始め東側の国々の名がよく挙げられていました。 大手メディアから政治家、学者まで革新系と呼ばれる人々が盛んに西側と比較して進歩的だ、目指すべき国や政治体制だと宣伝していました。 それに反論すると、社会や人類が進むべき未来への変化を否定する守旧派・反動 と呼ばれました。 しかし冷戦終結 (1989年)・ソ連崩壊 (1991年) で東側諸国の悲惨な実態が誰の目にも明らかとなり、その後はすっかり影を潜めました。
一方を持ちあげつつもう一方を貶める言い方は昔からあります。 ネットスラングでいう 比較厨 のようなものでおおむね嫌われ、経済や科学技術の分野で欧米先進国が日本に比べ圧倒的に進んでいると思われていた時代にあっても、反対側の立場、保守的な立場の人たちから 「西洋かぶれ」「舶来主義」 などと呼ばれることもありました。
何か意見を述べる際に自分の意見としてではなくことさらに 「〇〇では」 という参照先をつけるのは、それによって自らの意見に権威付けをしたり何らかの裏付けがあるかのように見せかける、あるいは海外の事情に通じている自分を誇示する目的があると見なされ、胡散臭く感じられてしまうのでしょう。 それは外国製品や ブランド を有難がったり、服装やライフスタイルを真似るといった 日常 の行為に対する見方にも同様の傾向があります。
日本人が海外に行くのが難しい時代には存在感
かつては日本人が自由に海外を訪れたり現地の情報などを入手するのが難しかった時代もありました。 そんな時代に海外渡航できる人は政治家や官僚、軍人や学者、有力者や富裕層子弟の留学生といった国や社会をリードする立場の人たちや、その人たちの傍らにあって強い影響を受けたり外国語に堪能で洋書を読むことができる人に多く、先進的な海外のあれこれに触れ、ひるがえって母国日本の至らなさを痛感して、帰国後に知見を活かした施策提言や制度改革、文芸活動を行ったり、危機感や善意から大衆に向けた分かりやすい意見を啓蒙として述べる人もいました。
とはいえ時には行き過ぎた欧米礼賛や単なる模倣、それと引き換えの母国の卑下や母国民たる日本人批判が過激化することもあります。 日本人を遅れた未開人や 愚民 扱いしたり、「洋行帰り」 の上から目線の鼻持ちならない態度とあいまって、明治維新・文明開化からしばらくすると庶民の間にも忌避感が生じます。 洋風の襟がついた シャツ (ハイカラー) を着るものをハイカラ、それを表面的な姿にとらわれた軽薄なものと見なし、あえて対極となる粗野な服装で反骨精神を示したバンカラ (蛮カラ) の登場などはその端的な例でしょう。
米ではなくパンを食べたり着物を捨てて洋服を着る人、よくわからない横文字を使って天下国家を論じる人は明治初期には早くも 「馬鹿の番附」 として批判されていましたし、川上音二郎による有名な流行歌 「オッペケペー節」(作詞/ 1889年) にも面白おかしく揶揄されており、西洋かぶれは蔑称として広がります。 開国と脱亜入欧を キャッチフレーズ に欧米礼賛を繰り返す政府高官や思想家などに対して尊王攘夷や国粋主義が台頭する中、分断やテロも拡大。 なかでも日本語を貧しい言語だと論じて英語の国語化を提唱していた明治政府初代文部大臣の森有礼は、明治憲法が発布された日に国粋主義者よって殺害されてすらいます。
その後日本は大正・昭和 へと時代を下って戦争の時代、そして敗戦から現在へと進みますが、極東の島国である日本にとって海外は憧れや恐れや侮蔑といった感情が時代によって揺れ動き、時々で和洋折衷したり一方を排斥したりを繰り返します。 そもそも歴史を大きく遡れば、仏教や思想、文字、建築技術や官制、社会制度が大陸からやってきた時にも軋轢がありました。
近現代の欧米出羽守に限れば、歴史上の大きなターニングポイントは日露戦争の 勝利 (1905年/ 列強の仲間入りだ〜みたいな感情)と、第二次世界大戦の 敗北 (1945年/ 日本的なものの全てが古くてダメだみたいな感情)、そして高度経済成長を経て経済大国としてのし上がりバブル経済で絶頂を迎えた時代 (1980年代末あたりまで/ 日本最高! みたいな感情) でしょうか。 バブル崩壊から現在までは 「失われた〇年」 の低迷する経済もあって、自信喪失気味かも知れません。 振れ幅が大きすぎて大変ですが、とはいえどこの国でも戦争やら経済成長や危機やらを挟んで似たような卑下と尊大、自虐と自尊の繰り返しが生じているものです。
ネット時代の出羽守
日本の経済成長によって誰でも気軽に海外旅行ができるようになったり、インターネット を通じて現地の情報などが簡単に手に入るようになると、出羽守にも変化があらわれます。 出羽守的な論を張る人が激増し、それに伴い反対意見も増えたのが大きな違いです。 海外の情報がほんの一部の人たちの物、あるいはそれに対する意見を広く社会に向かって発信できるのが大手メディアとつながっているごく一部の人たちだけの時代ならともかく、今では誰でもある程度の情報をネットから得て、またそれをネットを通じて発信できるようになりました。
おたく や 同人 に近いところでは、昭和 や平成の初期から散々云われていた「いい年をした大人が マンガ や アニメ、ゲーム にうつつを抜かしている幼稚な国は日本だけ」 という時代錯誤な意見の復古とか、児童ポルノ法 にまつわる 「日本は 児童ポルノ 大国」「欧米では子供の安全のために例え架空のマンガでも禁止されている」 みたいな日本の コンテンツ の歴史や傾向、治安のよさや社会情勢の違いを無視した意見が代表的でしょう。 時代を下るとフェミニズムやジェンダー問題視点での 萌え っぽい 絵 や キャラ に対する バッシング も大きくなっています。
当たり前の話ですが全てがパーフェクトな 「目指すべき理想の国」 などどこにも存在しません。 ある理想を実現しようとしたら別の何かをトレードオフで諦めなくてはならない状況も多いですし、欧米先進国にもそれぞれに問題や課題があることが、ちゃんと調べれば当然ながら見えてきます。 欧米で日本のように大人がマンガやアニメ、ゲームをしないのは、単に大人向けのコンテンツが少なくそのための流通が整っていなかったからですし、近年では日本のマンガやアニメ、ゲームが世界に広がり、それも過去の話になっています。 夜になると女性や子供が一人で街を歩けないような治安の国と日本とを比べて 「エロ なマンガのせいで性犯罪が増える」 などとそれが主原因かのように論じるのもさすがに無理があります。
さらに歴史や文化や社会のありようなど、単純に優劣がつけづらい分野に話が進んでくると、優劣の基準が単なる個人の好みの押しつけや無知からくる勘違いに過ぎないような状況も生じて、より激しい反発を招く結果ともなってきています。 出羽守とされる人たちの少なくない人たちが日本批判に都合の良い部分だけを切り取って語りますから、当然それに対する ツッコミ もされますし、感情的な西洋かぶれという印象だけでなく、誠実な話し合いができない人たちなのだとの ネガティブ な印象も強まります。 中には日本や日本人を嫌うあまり、誇張や捏造、嘘八百の 「素晴らしい外国と劣悪な日本」 をでっちあげているだけの人までいます。
とりわけ SNS (ソーシャル系サービス) の時代となると、単なる目立ちたがり屋が バズ を狙って嘘八百を 投稿 するケースも増えています。 海外に住んだことも訪れたことすらもないのに住んでいたことがある、留学していた、在住中ですなどの嘘をつく人、恋人や妻や夫が外国人だと嘘 (嘘松) をつく人もいます。 そしてそんな架空の人物の意見として 「日本は遅れている」「日本人はおかしい」 をひたすら 呪詛 のように連呼します。 こうなると出羽守以前に 病的 な虚言癖の持ち主ですが、矛盾だらけで嘘が見え見えでも 党派性 から支持する人もいて、矛盾や誤り、嘘を指摘・反論され、そのまま 炎上 したり、結果的に分断を広げる結果となっています。
もちろん実際に海外に在住している人が出羽守となるケースもあります。 ただしその人物が現地語で現地の人たちと交流している様子がほとんどなく、ただひたすら日本語で日本に向けてのみ延々と出羽守をし続けている様に、そうせざるを得ない境遇や心理状態に何らかの 不幸 を感じて同情する向きもいます。
よほどの秘境や戦乱の地といったニュースバリューのある地域にいるならともかく、誰でもすぐに行けるような外国に居ること 「だけ」 が本人のアイデンティティで、しかもそれが同じ日本人に罵詈雑言を浴びせて マウント するための ネタ にすぎないのだとしたら、それもまたずいぶん貧しく切ない話です。 大きなお世話ではありますが。
無知・主語が大きい問題
こうしたケースで多いのは、主張している人が単なる無知であったり、主語が大きい (自分の狭い考えや偏った情報を、あたかも世の中全体で指示され広まっている普遍的な価値であるかのように言い繕い、正当性があるかのように振舞う) でしょう。 例えば友人の外国人 (実在するかどうかは不明) が 「日本のここがおかしい」 と主張すると、それに無批判に同調することで 「自分は国際常識やグローバルな感覚持つ進んだ人間だ」 との表明ができると考えているのでしょう。
日本は 表現の自由 がありますから、どのような意見を述べるのも自由ですが、誰かを 強い言葉 で批判するなら、それなりの根拠なり ソース なりを示すか、少なくとも自分自身の意見として述べるべきでしょう。 また他人から同じように批判を受けたらそれを受け入れる姿勢も求められるでしょう。 自分の思い込みに基づく罵詈雑言や誹謗中傷を自分の言葉ではなく借りてきた外国人の目とやらで垂れ流し、誤りを指摘されたら 「外国人の友人がそう言っていただけ」「私の意見ではない」 では、周囲の人間も不快になるし、何より本人の評価を落とすだけです。
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