同人用語の基礎知識

マンガ/ 漫画

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何と云っても同人といえばマンガ

 「マンガ」(漫画) とは、、もしくは絵と文章などにより、おかしみや笑い、メッセージなどを伝える大衆的な表現方法全般を指す言葉です。 英語では 「Comics」(コミック/ 新聞漫画を語源とする、滑稽・ユーモラスなコマ割り漫画のこと) と呼びますが、日本語のマンガ (漫画) をそのまま英語化した 「Manga」 という表現もあり、この場合は日本製マンガ、もしくはその影響を非常に強く受けた作品を総称する言葉として使われる場合もあります。

 言葉としての 「漫画」 には、アニメ などを含む広い意味で使うケースもあり、またバカバカしいとの暗喩として漫画 (及び戯画)という言葉が使われる場合もあります。 表記の仕方としてはカタカナによる 「マンガ」 が多く、人によっては、「漫画」 と 「マンガ」「まんが」「Manga」 とで、それぞれに独特なニュアンスの違いを持たせ、言葉として使い分けをしている場合もあります。

 コミケ をはじめとして、いわゆる 同人 とか 同人誌 の世界でもっともよく使われ人気のある作品形態の カテゴリ がこの漫画でしょう。 同人誌即売会 (同人イベント) に参加する多くの サークル がこの形態の作品を作り、また活発に発表しています。

 マンガ同人の世界では、初期の頃はアマチュアが図案などを大量に 印刷 して 頒布 する方法がなく、ノートなどに直接絵を描く 肉筆回覧誌 などが多かったものですが、その後 オフセット印刷 の廉価化により頒布が中心に。 2000年代からは、ネット での公開を目的とした 「ウェブコミック」「ネットマンガ」 なども注目を集めています。 また創作に前後して、既存有名作品などの批評や論評、情報の取りまとめを行うような活動も活発に行なわれるようになりました。

形式や内容、想定対象などで、様々な種類のマンガに分類

 こんにち一般に見るマンガは、1コマ漫画のように一枚の絵や イラスト だけで完結するもの、2コマ漫画や4コマ漫画、それ以上のコマ数やページがあるコマ割りマンガなどがあります。 作品は視覚情報の表現・伝達は原則として絵で行い、キャラクター やその背景が描かれ、そのキャラが喋っていることをセリフで表わす フキダシ があったり、様々な擬音や擬態語の文字・文章、心理描写の画面効果などで構成されていて、全体として一つのマンガという作品になっています。

 内容については、笑いを目的とした 「ギャグ漫画」(狭義のマンガはこれが相当します) や、笑いを必須としない物語を描く 「ストーリー漫画」、皮肉や揶揄、パロディ の要素があり特徴を誇張して表現する 「風刺漫画」(戯画/ 鳴呼絵/ ポンチ絵)、絵やストーリーにリアリティを追求した 「劇画」、18禁 でエッチな好奇心を満たす 「エロマンガ」 などがあります。 それぞれはさらに恐怖を描く 「ホラー漫画」、未来を描く 「SF漫画」 などといったように ジャンル ごとに細分化され、作品傾向や想定する 読者 の層によって 「少年漫画」「少女漫画」「青年漫画」「成年漫画」 などに分類されています。

 作者のポジション、発表するフィールドによって分類することもあります。 大きく分けると、プロによる執筆、商業的な出版 (掲載する書籍に ISBN コードが振られた商業出版としてのマンガ) と、非商業、あるいはアマチュアが趣味として執筆発表する 「同人マンガ」 があります。 ただし作家、作品ともに両者の境界線は引きにくくなっています。

 また作者が設定や世界観、キャラクターなどの全てを自分で考えて創作するものを オリジナル と呼びます。 元ネタ ・原作となる作品があるものを 「パロディ」、二次創作版権モノ と呼びます。 ただし全くのオリジナルでも、何らかの作品をヒントにしたり、強い影響を受けているものもありますし、二次創作でも、元ネタに対するアレンジが極端に行なわれ、原型を留めていないようなケースもあります。

これほど慣れ親しんでいるのに、実は難しい漫画の定義…

 絵や絵と文章を使った表現方法はたくさんあり、壁に棒で描いたイタズラ書きから、絵巻物、草双紙、絵本、現在の印刷された書籍として世界中に広まる数千ページに及ぶ長編漫画まで、表現方法や道具、出版形式や規模は多種多様です。

 漫画と極めて似た、あるいは同一の表現でもある 「戯画」(カリカチュア/ Caricature/ 風刺画/ ポンチ絵/ 1コマ漫画) や、絵巻物、草双紙、絵本などとは様式的にも近い部分が多々あり、挿絵に極端な重点が置かれた一部の小説や ライトノベル (ジュブナイル/ 少年向け絵物語) なども作品によっては極めてマンガに近い表現となります。

 視覚情報をもっぱら絵で描くもの、面白みのある落書きや似顔絵などから始まった戯画が発展したもの、それらが発展して分化したものの一部が漫画とする考え方がありますが、長い歴史の中で、漫画という言葉の意味や作品そのものの内容、定義が変わる場合もあり、厳密な分類や定義は、あまり意味をなさないもの (もしくは不可能) なのかも知れません。

 なおここでは、とても大雑把に漫画のルーツや歴史について解説していますが、漫画と一口に言っても膨大な歴史と作品があり、さらに漫画以外の文化とも極めて密接で複雑な関係を持っています。 ごくごく一部だけを切り取っても、専門書が何十冊でも書けるほどのボリュームのある文化なので、ここでは大雑把な流れを、キーワードの羅列として見て頂けると幸いです。 その後詳しく調べる時の取っ掛かりになるよう、なるべく時系列に沿って、重要な事象と固有名詞をコンパクトにまとめるよう努力したつもりです。

「漫画」 と 「Comic」 の語源とルーツ

 「漫画」 という言葉自体のルーツは、とりとめもなく気の向くままに筆を取るとの 「随筆」(もっぱら文章を書くことを指し、いわゆるエッセイ (Essay) のこと) を意味する漢語、「漫筆」「漫文」 を 「絵」(画) に当てはめ、「漫筆画」 から 「漫画」 になったとする説が一般に知られています。 東洋では 「書画」 という、文章 (書) と絵画とが一体となった独特な芸術様式がありますが (詩画とも)、これの一種を指す言葉が転用されたとの説ですね。

 一方、同じく中国で、鳥の 「白琵鷺」(ヘラサギ/ Eurasian Spoonbill/ コウノトリ目 トキ科) の一種、「漫画」(まんかく) がその平べったいクチバシで様々な魚を無造作に捕って食べることから 「色々な出来事を気ままに絵で切り取る」 との意味でその名称が当てはめられ、「書画」 あるいは庶民的な絵画表現を指す言葉として使われるようになったのが語源との説もあります。 いわば旅をしたり日常生活で気軽に行なう写生、スケッチ (Sketch) のようなものです。

 ともあれ中国語を語源とした漫画は、江戸時代に山東京伝や葛飾北斎らによって、「漫筆画」や 「スケッチ」 の意味で戯画の一部に対して使われるようになり、さらに明治に入って、今泉一瓢や北澤楽天らが欧米から入ってきた新聞の時事風刺漫画などを表わす言葉、「Caricature」 や 「Cartoon」、あるいは 「Comic」 の日本語訳として 「漫画」 を当てはめて使うなどして、徐々に日本で広まることになったのでした。

 なお 「Comic」(コミック) は英語の 「滑稽な、ユーモラスな」 という言葉が使われるようになったもので、元々は喜劇を意味するギリシャ語でした。 「Caricature」(カリカチュア) はイタリア語で荷物の積みすぎ、転じて 「誇張」 の意、「Cartoon」(カートゥーン/ 現在はアニメーションの意味で使われることが多い) はイタリア語もしくはオランダ語の 「厚紙」 を直接意味し、油絵の制作を行う際に描く 「下書き」 から転じています。 カートゥーンと似た表現に対する名称には、「パネル」(Panel) という呼び方もあります。

日本の戯画・漫画と、子供向けの草双紙と赤本

 日本のマンガ前史を語る上で必ず登場するエポックな作品としては、国宝で日本初の漫画とも云われる絵巻物の 「鳥獣人物戯画」(平安時代〜鎌倉時代) や、絵の手本として気まぐれに描かれたスケッチをまとめた 「北斎漫画」(江戸時代) があまりに有名です。

 またこれとは別に、江戸時代に子供向けに発行されていた草双紙と呼ばれる書物や、明治時代に数多く発行された、子供向けの講談 (歴史や軍事、政治の話などを、面白おかしく聞かせる芸能) や落語 (お笑い芸能) の ネタ を主題に扱う、一般の書籍より庶民向けの低俗・簡便な娯楽読み物がありました。 これらは 「赤本」(ただし初期の草双紙と明治時代以降の 「赤本」 とは、直接のつながりはない) と呼ばれます。

 明治時代の 「赤本」 は、講談本、落語本とも呼ばれ、質の悪い紙で作られた本に書き下ろしの低俗・下世話な内容が詰め込まれた 「B級読み切り雑誌」 のようなものでした。 派手な赤い色の 表紙 だったことから、赤本と呼ばれます。 ストーリー構成が起伏に富みドラマチックに展開する戦争物語や冒険・仇討ち・忠孝物語や、興味を惹き好奇心を刺激する真偽不明な見聞記事が満載され、庶民の子供たちに人気を得ていました。

 当時のこれらの書物には、こんにちでいう 「漫画」 が直接掲載されていたわけではありませんが、1914年 (大正3年) に、現在の講談社の前身となる大日本雄辯會講談社が創刊し、数多くのマンガ家を後に生んだ代表的な 「赤本」 である 「少年倶楽部」(戦後は 「少年クラブ」) をはじめ、「少年誌」「少女誌」 という、後のマンガ専門雑誌の大きな潮流のルーツとも呼べ、漫画の掲載比率が増えて土壌となった、重要な存在でした。

 これらの本を発表場所として、児童向けの大きな挿絵の入った冒険小説や怪奇小説、絵と文章が融合した痛快な作品が多数作られ、後に新聞漫画などの影響を受け徐々にコミック化。 これらの流れは日本独特のマンガ (Manga) の発展において、ほとんど決定的な極めて大きな役割を果たしたものだと云えます。

 なお日本で最初の 「漫画雑誌」 としばしば呼ばれるのは、1959年3月17日に講談社から創刊された 「少年マガジン」 ですが、これも初期の頃は小説などの読み物や、スポーツ芸能情報などが合わせて掲載された、子供向けの総合雑誌、娯楽に重点が置かれた 「学年誌」 のような内容でした。

 実験的な雑誌や描き下ろしの 「赤本漫画」、紙芝居から派生した 「貸本漫画」 や同人雑誌を除くと、漫画のみで構成された本格的な商業マンガ雑誌は、1968年7月11日創刊の 「少年ジャンプ」(集英社) からとなりますが、読者投稿欄があったり、アイドルタレントのグラビアが掲載されたり、1983年7月15日に任天堂よりファミコンが発売され ゲーム が子供たちに人気となると、攻略情報が記事として掲載されるなどの動きもありました。

日本の戯画・漫画と、Comic が融合

 現在の商業マンガにみられる 「様式」 に直接連なるマンガとしては、幕末から明治にかけて日本にやってきた、海外で発行されていた新聞漫画や簡便な風刺画、及びそれらをまとめた書籍類とその影響を受けて日本で発行された作品群があります。

 「ポンチ絵」 の語源ともなっている日本初のマンガ雑誌と呼ばれる 「ジャパン・パンチ」(THE JAPAN PUNCH) が、1862年に横浜の外国人居留地で、イギリス人画家、漫画家のチャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman/ 1832年8月31日〜1891年2月8日) によって発行されています。 その後、日本人の手によるマンガ表現も始まり、北澤楽天によって新聞に1902年から描かれた 「時事漫画」 ほかが有名です。 その後同人会や文芸同人グループ、結社などで盛んに描かれるようになっています。

 その後、一部の版元がそれらをまとめて出版したり、まだ本が高価だった時代に、それらを回覧したりレンタル (貸本) の形で発表するなどして、徐々に広まることになりました (こうした出版形式は、前述した 「赤本」 などと同様、戦後まで頒布形式と一緒に続きます)。 ちなみに日本最古と云われる漫画雑誌 (オールカラー) は 「東京パック」(北沢楽天 主筆) で、1905年 (明治38年) の創刊、「大阪パック」 が翌年1906年の創刊となります。

 これらは日本の絵画や戯画や漫画 (漫筆画) の伝統や様式を持ちながらも、ヨーロッパのマンガ文化から強く影響を受けたものでした。 とりわけスイスのマンガ家・風刺画家のロドルフ・テプフェール (Rodolphe Töpffer/ 1799年1月31日〜1846年6月8日) が広めた近代的コマ割りマンガの手法は斬新で、一枚絵の伝統的絵画などと違い、枠線によって 「時間」 と 「空間」 を切り取り、それを時系列に並べる形式でマンガと云う表現方法を革新していました。 こうした最新技巧で面白おかしく描かれた Comic に、幕末から明治の日本人も大いに好奇心を刺激され、興味を示したのでしょう。

 しかし一方で、「浮世絵」 や 「北斎漫画」 などは1830年代にヨーロッパに渡り、いわゆるジャポニスム・日本ブームを巻き起こし、独特な色彩感覚、構図や、ヨーロッパにおける 透視図 とは違った空間の描写を、フランスの印象派絵画に大きな影響を与えていました。 この時代のマンガ家は伝統的絵画の画家からの転向も多く、このうねりは初期のコマ割りマンガはじめ様々な視覚表現芸術に影響を与えていました。

 欧米のマンガ (Caricature や Cartoon、Comic など) も古くから伝統があり独自の発展を遂げてしましたが、様々な異なる文化が出会い、影響しあうことで、世界中でマンガが加速度的に発展し結びついたのがこの頃だったのでしょう。 とくに日本は260年間に及ぶ鎖国から開かれたばかりで、日本にとっても海外にとっても、お互いに新しい発見がたくさんあったのだと思います。

 ちなみに 「セル画」 を使ったアニメ (セルアニメ) の手法が発明され確立したのが1914年、漫画家がアニメ制作に関わり車の両輪として大きく羽ばたいたのが1920年前後でした。 日本における講談や小説、及び 「紙芝居」 とマンガとの切っても切れない関わりなどもそうですが、1990年代頃になって 「スレイヤーズ」(1989年)、「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)「機動戦艦ナデシコ」(1998年) の商業展開で声高に叫ばれていた 「メディアミックス」 などは、何も新しいものではなく単なる原点回帰であり、その誕生の時点ですでに不可避のものだったのが分かります。

 そして西洋風マンガが大きく発展する檜舞台は、やがてヨーロッパからアメリカが中心となって行きます。 すなわち 「アメリカン・コミック」、数多くのヒーローが生まれた 「アメコミ」 の黄金時代の到来です。

「アメリカン・コミック」 の隆盛とマンガヒーローの登場

 簡便で安価な印刷技術の発展と普及、大衆文化の発展が著しい1900年代前半、アメリカでマンガ (Comic) が大きく発展することになりました。 アメリカでのコミックの出版は、前述したテプフェールの作品、「Les amours de M. Vieux Bois」 の1842年の海賊版であるとされますが、本格的に広まり普及したのは1860年代〜1880年代に新聞の日曜版に掲載されたコミカルな連続読み物 (ニュースペーパー・コミック・ストリップ) であり、Comic という名称も、「コミック・ストリップ」(Comic Strip/ ユーモラスな切れ端) から派生したものでした。

 新聞漫画家として絶大な人気と影響力を持つ ルーブ・ゴールドバーグ(Reuben Lucius Goldberg/ 1883年〜1970年) の登場や、1920年代から才能にあふれた多数の作家や作品が生まれたことにより、マンガという コンテンツ が定期刊行 (逐次刊行) される単独の読み物としても人気を得ることに。

 新聞などと違い上質な紙で30ページほどの体裁、大ぶりなカラー印刷がされた書物が多数出版され、1冊につき原則1人の作家の1作品が掲載されていました。 こうしたものは、「コミックブック」(Comic Book) と呼ばれました。 成熟期は1930年から1950年初めとされ、この時代を 「Golden Age of Comic Books」 と呼ぶ場合もあります。

 1934年に「DCコミック」(DC Comics)の前身となる 「ナショナル・アライド」(National Allied Publications)が発足。 1938年に 「スーパーマン」(Superman)、1939年に 「バットマン」(Batman)、1940年に 「JSA」(Justice Society of America)、1941年に 「ワンダーウーマン」(Wonder Woman) などなど、現在の日本でもおなじみのアメリカヒーローが次々に登場し、子供たちの大人気を得ました。

 この 「DCコミック」 と並び2大アメリカン・コミック出版社と称される 「マーベル・コミック」(Marvel Comics) も、1939年にその前身が 「タイムリーコミックス」(Timely Comics) として発足。 1941年の 「キャプテン・アメリカ」(Captain America) をはじめ、多彩なヒーロー、作品をこの時代に生み出し、「DCコミック」 や他の出版社と覇を競いました。 またアメリカ・日本のみならず、後世のスペースオペラに大きな影響を与えた 「フラッシュ・ゴードン」(Flash Gordon/ 1934年) も、この時代の作品です。

 スヌーピーで有名なチャールズ・M・シュルツの 「ピーナツ」(Peanuts) は1950年から連載が開始 (その前身とも云える作品、「リル・フォークス」(Li'l Folks) は1947年から連載)、ギャグやシリアスから、ほのぼの系、恐怖マンガまで、あらゆる種類のコミック作品と、あらゆるジャンルの表現が、この頃にほぼ出そろっていたと云えるでしょう。

日本でも、「赤本漫画」 と 「貸し本漫画」 から次々と人気キャラクターが登場

 日本におけるマンガの大きな転換点が、幕末から明治にかけての欧米コミック (新聞漫画) からの影響を強く受けた新しい表現の導入と、その出版であるのは先に見たとおりですが、これとは別に、もうひとつ大きな流れがあります。 それは前述した 「赤本」 です。 子供向けの大衆的な物語を、講談や落語のネタを中心に絵と文章で分かりやすく掲載し、子供たちに人気を得ていました。

 この時代、日本でもマンガ (の前身のような作品、絵に重点を置いた絵物語) が、多数生まれていました。 前述した1914年創刊の 「少年倶楽部」 は、子供向けの総合誌のような内容のものでしたが、冒険物語や熱血痛快なヒーローもの、SFやオカルトなどの興味を惹く題材の作品が挿絵つきの物語や長編小説として多数発表され、人気を得ていました。

 なかでも1931年から連載が始まった田河水泡の 「のらくろ」 や、1933年からの島田啓三の 「冒険ダン吉」、1935年からの中島菊夫の 「日の丸旗之助」 などは大人気となり、当初は絵と文章による構成だったのが、マンガ的な表現に徐々にシフトして行きます (一部は後に完全にマンガ化)。 人気に伴い、1932年からは巻頭に 「漫画愉快文庫」 と題した多色刷りの企画が登場。 さらに 「付録」 として、別冊のマンガ本などがおまけにつくようになったり、その影響で駄菓子屋や露店などで売られる書き下ろしの粗末なマンガ本 (赤本漫画) が爆発的に増え、ブームを巻き起こします。

「貸本」 の源流とも云える 「紙芝居」

 またそれと前後して、子供向けの娯楽として 「紙芝居」 も台頭します。 紙芝居自体は、平安の時代から 「絵解き」 として登場していますし、その後は寺などでお坊さんが道徳話を子供に話して聞かせるものとして定着し、江戸末期から明治、そして大正・昭和には、講談や落語の寄席、見世物小屋の 「のぞきからくり」 や、写し絵や影絵、後には映画が入って来てからの弁士による芸能などと密接に関係しながら発展していました。

 その後、映画が普及し、さらに無声映画からトーキー (音のついた映画) になり、講談士や弁士として活躍していた人たちが追いやられ 「紙芝居屋」 を立ち上げたり、街角で紙に書いた絵を前に、駄菓子の販売で集めた子供に熱弁をふるう 「街頭紙芝居」 が登場し人気を集めていました。

 この紙芝居の物語を考え絵を描く作家や、紙芝居を専門に制作する出版社などが立ちあがり、多くの場合は映画における配給と上映のように、紙芝居の 「貸元」 として紙芝居屋に作品を貸し出していました。 戦前には都市部でブームと呼べるほどの広がりを見せ、その後、焼け野原となった戦後にも、庶民の子供たちの娯楽として再び隆盛を極めます。 その後これらの一部は時代の変化と共に制作物を紙芝居から漫画に変え、貸本屋に鞍替えしたり、貸本漫画家、漫画出版社へと転向して行くことになりました。

 紙芝居の世界から誕生し、その後漫画作品としても人気となった作品はたくさんあります。 1930年に発表された 「黒バット」 の人気を受けて制作された 「黄金バット」(永松健夫) や、新聞漫画として国民的人気となった 「少年ケニア」 の山川惣治の作品 「少年タイガー」、後の 「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる/ 1954年) となる1933年の 「墓場奇太郎」(伊藤正美) など、マンガやアニメとして数十年を経てなお衰えない人気を持つヒーローなどが生まれています。

酒井七馬と、漫画の神様 手塚治虫、そして 「新寶島」 の登場

 1947年 (昭和22年) 1月30日、酒井七馬 (1905年4月26日〜1969年1月23日) の原案・構成を手塚治虫 (1928年11月3日〜1989年2月9日) が漫画化した単行本 「新寶島」(新宝島/ 育英出版) が、40万部とも80万部とも云われる空前のベストセラーに。

 酒井七馬は 「大阪パック」 などで 編集 を行いながら自らも作品を執筆する漫画家であり、紙芝居作家であり、戦争中は新聞に時事イラストなどを描く傍ら、アニメーションの世界でも活躍。 戦後は進駐してきたアメリカ軍とのつながりで得たアメコミに強い衝撃を受け、新しく創刊されたマンガ雑誌などで作品を発表しながら、仲間と会員制の同人サークルを立ち上げて活動していました。 その集まりから同人漫画雑誌 「まんがマン」 を創刊。 これがきっかけで手塚と出会って、この歴史的な作品 「新宝島」 の制作に着手します。

代表的なマンガ雑誌(総合誌を含む)
創刊雑誌名出版社
1947年12月 漫画少年学童社
1949年 おもしろブック集英社
1949年 少年少女冒険王秋田書店
1955年1月25日 なかよし講談社
1955年8月3日 りぼん集英社
1959年3月17日 週刊少年マガジン講談社
1959年3月17日 週刊少年サンデー小学館
1962年 少女フレンド講談社
1963年 週刊マーガレット集英社
1963年7月8日 週刊少年キング少年画報社
1964年 月刊漫画ガロ青林堂
1967年 COM虫プロ商事
1968年4月 少女コミック小学館
1968年7月11日 週刊少年ジャンプ集英社
1969年7月15日 週刊少年チャンピオン秋田書店
1977年1月 ちゃお小学館

 一方、1946年に少国民新聞の4コマ漫画でデビューしていた手塚は、アメリカのディズニー映画に傾倒し、田河水泡らの作品を見て育ったマンガ青年でした。 デビューしたてでしたが、子供の頃からマンガの虫。 戦争中に書きためた長編漫画などもたくさんあり、まさに満を持しての本格的なマンガデビューでした。

 両者は意気投合し、新しいマンガの世界を開拓。 この作品をきっかけに 「赤本漫画」 の人気がピークを迎え、マンガ同好会のようなもの各地に作られることになりました。

 酒井七馬と手塚治虫は、漫画に本格的で映画的なストーリーやテンポ、テーマを取り込み、それまでのマンガの様式を大きく変えるだけでなく、後に続く数多くの漫画家に影響を与えました。 中でも手塚は大いに名を上げ、戦後ストーリーマンガの世界の屋台骨を作り上げた天才、新しい時代の 「漫画の神様」 として君臨することとなります。

 この頃から貸し本屋も全国に広まり、作品タイトルも急増。 お金がなくても安価にたくさんの作品を楽しめるようになり、また子供向けではない大人向けの 「劇画」(ただしいわゆるエロなものではない/ 後述します) など、様々なマンガが描かれ、読者の裾野をも大きく広げることになりました。

漫画作品を中心とする雑誌が次々創刊

 1947年12月には、「漫画少年」(学童社) が創刊。 1949年には集英社より 「おもしろブック」 が創刊 (1959年に 「少年ブック」 となり、さらに1969年に別冊少年ジャンプと統合して月刊少年ジャンプに統合)。 1955年1月には、講談社から少女向け雑誌 「なかよし」 と同時に 「ぼくら」 が創刊されています。

 これらの雑誌は当初、月刊誌として創刊されたものがほとんどでしたが、漫画の人気や日本が高度経済成長により経済的に豊かになり庶民の生活にゆとりができる中、後に月2回発行を経るなどして、1960年代になり次々と週刊化 (あるいは新規創刊の週刊誌と統合の形で廃刊)。 ほぼ現在と同じようなマンガ雑誌が出そろう時代となりました。

 この時代、学童社が 「漫画少年」 をはじめ自社雑誌で連載を持つ若手漫画家の多くを東京都豊島区のアパート、「トキワ荘」 へ入居させていました。 1953年に入居した手塚や寺田ヒロオをはじめ、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、水野英子など、後に有名になる漫画家が多数入居したこのアパートは、才能ある若者の意見交換や情報交換、交流の拠点として大きな存在感を持ち、ある種の 聖地 ともされました (ただしそれが話題になったのは、入居者が成功し有名になった、ずいぶん後のことでした)。

 入居はしていなかったものの、出入りしていた漫画家も園山俊二、つのだじろう など多数おり、さらに坂本三郎、鈴木伸一など、アニメの世界で活躍する人たちなども、「トキワ荘グループ」 として活動していました。 手塚や石森はじめ多くの漫画家は、日本のマンガを共に牽引して行くさらに多彩で数多くの駆け出しの漫画家や漫画家志望者らをアシスタントとしてかかえ、一躍世界のマンガの中心に日本を押し上げてゆくのでした。

 なお 「コミックマーケット」 や 「日本SF大会」 の開催史を中心に、1950年代からのマンガやおたくの流れは、同人おたく年表 の形でまとめてあります。 詳しくはそちらもご覧ください。

アメコミが衰退し、日本漫画が驚異的な発展

 アメコミは1950年代をピークに、いわゆる コミックコード を巡る騒動 (この項目でも後述します) で失速してしまうのですが、その影響を日本も受けながら、同時にこの頃から日本のマンガの驚異的な発展が始まることにもなりました。

 その理由は文化的なもの、出版の世界の慣行など様々あると思うのですが、もっとも大きかったのは、日本のマンガ誌の多くが粗末な再生紙にモノクロ印刷 (単色印刷) で発行されていたこと、定期刊行される漫画誌が児童向け総合誌からの流れで、1冊に複数のマンガ家の複数の作品が同時に掲載されていたことの2点となるでしょう。 さらに人気作品は単独で1冊の単行本の形にまとめられ、いつでもまとめ読みが出来るよう二次販売される形を確立したのも大きいです。

 アメコミなどは、1冊1作家1作品がポピュラーでしたし、比較的上質な紙に、カラー印刷されて発売されるのが普通でした。 この形態ですと、作家はカラー印刷のための着色などで描くのに時間がかかり、とても週刊のペースで執筆を続けることが困難ですし、仮にそれができても、本の価格が高くなり、子供たちが毎週買い続けるのは難しくなります。

 また新規作品や、まだ ファン のついていないマンガを単独で出すのは出版社にとって大きなリスクがありますが、複数の作品との抱き合わせの形で刊行すれば、1つ2つの作品がダメでも、人気作品目当てに購入してもらえますし、それは結果的にマニアックな作品や冒険的な内容の作品を生み出す土壌ともなります。

 もちろん日本はアメリカに比べ貧しい国で、おまけに間に敗戦まで挟んでいますから、娯楽のためのマンガの発行ができない時期もありましたし、粗末な紙を使ったみすぼらしいマンガ誌は経済的にやむを得ないものでした。 しかし結果的にそれはマイナスどころか、膨大で多種多様な作品を生む母体ともなりました。 マンガにかける作者や読者の情熱以外にも、ある意味で災い転じて福となるような幸運が、日本のマンガに舞い降りたのかも知れませんね。

「劇画」 と 「官能劇画」、「ロリコン誌」 と 「美少女コミック誌」

 1940年代中頃に 「赤本漫画」 のブームと、貸し本屋の台頭がありましたが、手軽に楽しめる庶民の娯楽として、後に子供向けではない大人向けの漫画、「劇画」 が登場することになりました。 より重厚なストーリーに重点を置き、絵も写実的でリアリティのあるものとされ、大人の鑑賞に堪える作品が求められました。

 「劇画」 という言葉自体は、漫画家の辰巳ヨシヒロ (1935年6月10日〜) が作った名称で、1957年に貸本として発行された 「幽霊タクシー」 の表紙に書かれたものが最初とされます。 これまでの児童向け漫画とは違う新漫画のジャンルとして提唱され、「ゴルゴ13」 で知られる さいとう・たかを (1936年11月3日〜) らとの親交の中で誕生。 さいとう らとで 「劇画工房」 の旗揚げも行われました。

 後に 「劇画工房」 の分裂により 「さいとう・プロダクション」 が発足、辰巳ヨシヒロは少年漫画などとは比べ物にならないほど面倒な作画 (リアリティを求めて、風景や背景なども緻密に書きこんだ) を分業制のプロダクションスタイルで制作する仕組みを仲間と作りあげ、また貸本という独特な配本スタイルから、貸元として出版部門を持つ独立性の強い 「コンテンツの制作販売グループ」 の形を作り上げました (このうち、出版部門が独立したのが、後の 「リイド社」(1974年11月)。

 戦後、下世話・安直な内容で粗悪な紙を使った安価でダーティーなイメージの庶民向け娯楽雑誌が乱立しました。 初期の劇画には、いわゆる 「性的なアダルト要素」 はなく、アクションを大幅に取り入れたシリアスな物語が中心でしたが、こうした作風は、子供向けの雑誌には掲載するのが困難でしたが、駅で売られるような大人向けのゴシップ誌 (下品なゴシップ、エロやエロ小説などを売り物とする低級な雑誌) においては、まさにうってつけの作品でした。

 こういった雑誌類は 「カストリ誌」 と呼ばれていました。 「カストリ」 とは 「酒粕取り」、すなわち粗悪なカストリ酒 (焼酎、もしくは密造酒) のことで、「3合飲むと酔いつぶれる」 が転じて、創刊から3号も出したらつぶれる雑誌という、シャレの効いた名前の雑誌でしたが、俗に 「カストリ文化」 などと呼ばれるゲリラ的で野卑な文芸運動の一種のような熱気を持っていました。

 こうした流れは1970年代になり、官能劇画エロ雑誌として盛り上がり、「週刊 エロトピア」「劇画 アリス」「漫画 大快楽」「漫画 エロジェニカ」「プレイコミック」「劇画 ジャンヌ」「週刊 漫画」「漫画 パンチ」 などの、「大人向けのマンガ雑誌」 の隆盛につながって行きます。 その後、1980年代後半から1990年代前半に掛けて ロリコンコミック誌 (ロリコン誌) の時代が、ロリコン のブームと共に到来。 販路を書店のほか自動販売機などに広げながら、後の 美少女コミック誌 に繋がって行きます。

 マンガや劇画で 「エロ」 を扱うのは、アメリカを初め海外ではほぼあり得ず、これは日本マンガの良くも悪くも大きな特色の一つともなっています。 それらの作品のいくつかはアニメ化され、アダルトアニメ、HENTAI として海外でも一部の熱狂的なファンを持つ独特な文化として大きな存在感を持っています。 これはコンピュータゲームにおける美少女ゲームなどにも連なるもう一つの潮流で、こうした美少女ゲームの新製品紹介や攻略情報を扱う雑誌が、また美少女コミック誌とも相互に密接な関係を持ち、他国にはない日本独自の流れを作っています。

「コミックコード」 の導入と、「アメコミ」 の衰退

 1950年代、アメリカのコミック文化はピークを迎えていました。 ところがこうしたコミック作品に登場する暴力表現などを 「子供に有害だ」 と問題視する声が急速に高まり、強い批判に晒されることとなりました。 とりわけ精神医学者フレデリック・ワーサムによる著作で 「暴力的、反社会的なコミックは有害であり、子供への悪影響がある」 と唱えられたことにより、漫画家や出版社は保護者団体、とりわけ保守的なキリスト教系の婦人団体などからの強い批判の矢面に立たされることに。

 こうした状況を受け、コミック出版社では 「コミックス倫理規定委員会」(CCA/ Comics Code Authority) を1954年に発足させ、映画などの 自主規制レイティング などの基準や施策を参考にコミック表現を制限する、いわゆる 「コミックコード」(Comics Code) の策定とそれによる認証制度を実施することになりました。

 このコミックコードの自主規制はとても厳しいもので、暴力やホラーといった表現の制限だけにとどまりませんでした。 社会的に尊敬を受けるべき政治家や警察官、教師や牧師などを茶化したり批判したり、彼らが悪党や黒幕であるといった表現を制限するとか、社会道徳、モラルに反する一切の表現の禁止、子供が殺される描写、死ぬ描写の禁止や、一度死んだものが生き返ることの禁止、さらに 「正義と悪の区別をしっかりつける」「悪者が正義に勝つことを禁じる」 など、物語やメッセージ、内容そのものにも深く踏み込んだ徹底したものでした。

 こうした過剰な自主規制がされた中でも、1962年の 「超人ハルク」(The Incredible Hulk) や、1963年の 「スパイダーマン」(Spider-Man)、同年 「X-メン」(エックスメン/ X-Men) などなど、日本人が 「アメリカン・コミックス」(アメコミ) と云うと真っ先に思い出すようなビッグタイトルが生まれてはいました。 しかし作品から良い意味での毒が失われたり、物語が勧善懲悪でワンパターン化するなど、表現の幅が大きく狭まり、また勢いが急激に衰えることになりました。

 一部の作家は、自主規制を受けない アンダーグラウンド に活躍の場を移したり、コミックコードを無視した 「ノンコードコミック」 といった独特な作品土壌を開拓しましたが、徐々に勢いを失うことになりました。

「漫画は健全な子供の成長の敵だ」 マンガを巡る厳しい状況

 こうした動きはアメリカだけでなく日本にも波及し、いわば 「漫画狩り」 とも呼べるマンガ排斥の動きが保護者や一部団体から巻き起こることになります。 それを受け、出版社や取次会社、小売書店ら関連4団体が 「出版倫理協議会」 を設立。 各地方自治体などで 有害図書 と指定された出版物等に対して、各種表示を行ったり自主回収などを行うよう、出版社に対して自主的に通知などを行うための施策 雑誌や出版物等に関する青少年関連施策 を取りまとめることになりました。

 アメリカではコミック文化自体が大きく衰退したことにより、コミックの排斥運動は下火となりますが、マンガが大きく発展し、成人向けの性的表現のあるマンガまでが登場した日本では、有害コミック の排斥運動や 子供向けポルノ追放運動 など、こうしたバッシングがその後も何度も繰り返されています。

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(同人用語の基礎知識/ うっ!/ 2000年10月16日)
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