人を見た目だけで判断すると…? 「ルッキズム」
「ルッキズム」(Lookism) とは、人の外見・容姿を重視、あるいは大きな評価基準として、ある人の全体を判断したり不当な区別や差別をすること、またそれを批判的に指す言葉です。 英語の look (外見・見た目) と ism (主義) を合わせた造語で、「外見至上主義」「外見重視主義」 や 「見た目至上主義」 と呼ぶこともあります。 容姿は顔の作りはもちろん、体形や スタイル (身長の高低や肥満や痩せぎす、胸のあるなし) や体毛の有無、頭髪 (髪色 や 白髪・ハゲ の有無)、肌の色、眼鏡 のあるなしなど外見の全てを含めます。
ルッキズムがとくに批判されるのは、容姿とは何ら関係のない分野、例えば 学校 の受験や企業の就職活動における選考や人事評価に ルックス が影響を与える状況でしょう。 これは明白な差別だとして社会的にも強い批判の対象となります。 その教育を受けたり仕事につくのに十分な能力を持っているのに偏見や不当な評価、すなわち差別によって機会を奪われることは本来あってはなりません。 それは個人の可能性を奪ったり 尊厳を壊した り不利益や不快を与えるといった倫理的な問題だけに留まらず、社会にとっても 有能 な人材をみすみす失う無益で愚かなことでもあります。 もちろん個人間の話であっても、本人に向かって容姿を悪しざまに揶揄したり陰口をしたり、あるいは仲間外れにするなども批判されるべきルッキズムの典型と云えます。
「ルッキズム反対」 は、人を見た目で判断するな、内面や能力をちゃんと見て正当に評価しろという立場となります。 さらにはルッキズムを肯定したり加担するような表現に対する批判も合わせて行われることがあります (後述します)。 こちらは抗議活動などを通じた表現規制を求める動きや意見にも見え、逆に強い批判に 晒され ることもあります。 なおルッキズムに基づく採用や人事評価は揶揄の意味で 「顔採用」「顔昇進」 などと呼ばれます。 直接的な容姿の美醜表現がはばかられる場合、清潔感 とか真面目そうとか 清楚 っぽいみたいな云い方になることもありますが、外見で判断するという根本的な部分は同じです。
本来の意味を離れ、日常会話でも使われるようになったルッキズム
概念 としては、いわゆる 「面食い」 に似たところもありますし、個人の印象、とくに恋愛感情における印象が個人的な好みに 引っ張ら れるのはある程度やむを得ない部分もあります。 人は自分にとって好ましいもの、バランスが取れ 整った ものを美しいと感じ、それが内面やその他の評価に結びつきやすい心理的な傾向 (バイアス) があります (ハロー効果)。 求愛や威嚇におけるディスプレイ (視覚的アピールだけでなく匂いや鳴き声なども含む) は、人間を含めあらゆる動物の本能に近いものです。
とはいえ人間は他の動物とは違ったところもありますし、野生動物と同じ価値観では生きていません。 だからこそ昔から 「外見より中身が大事」「表面的なものより性格や人柄」 みたいな価値観や価値序列が建て前としてであっても支持されがちですし、見た目だけで友人や恋人を選ぶ人は昔も今もおおむね批判や軽蔑の対象です。 まして恋人でも友人でもない赤の他人に対して行うそれは、単に不快な、あるいは不公平だというだけでなく、倫理的にも社会通念的にもたいへん問題の大きな行為と云えるでしょう。
一方でルッキズム反対や多様性の尊重、ポリコレ (ポリティカル・コレクトネス/ 政治的正しさ) といった言葉が広がる中、時代を下ると本来の意味を離れ、ネタ としての緩い使われ方もされるようになっています。 例えば服装や 髪型 が決まってなくて誰かに指摘されたら 「ルッキズムよくない」 みたいに茶化して反論したり、Vtuber の キャラ絵 やデザインに対して使うこともあります。
このあたりはルッキズムという言葉が浸透したからでもあるし、一方でルッキズム反対を唱える 界隈 の一部に 思想強め で口の汚い人がいて、同じ人から聞こえてくる極端なジェンダーやフェミニズム主張への反発から生じた 露悪的 な揶揄という ニュアンス が人によってはあるのでしょう。
おたく・腐女子におけるルッキズム
おたく・腐女子 に近いところでは、歌手や役者、声優らを実力ではなく顔だけで判断して ファン になる人を顔ファン、顔で 推す のは 顔推し、同人 の カップリング で顔だけで キャラクター を判断し、自分のイメージを押し付けるものを 顔カプ と呼んだりもします。 単なる 趣味 や娯楽の話とは云え、これらもおおむね批判の対象となる行為と 認知 されています。 顔を見るより歌を聴け、演技力や芸を評価せよというわけです。 とくに本来は 顔出し が業務上必ずしも必要でない声優や 作家 らの興味本にの容姿評価は何かと批判の声も大きくなりがちです。 このあたりはルッキズムという概念が広がる以前から、面食いの文脈で定着していました。
近年では映画やドラマで演技力もないルックスが良いだけにも見えるアイドルが起用されると、揶揄としてルッキズム映画やドラマと呼ばれるようにもなっています。 中でも高い演技力が求められるような重厚な人間ドラマや歴史劇・時代劇、往年の名作のリメイクに、若くて顔が整ったアイドルが用いられると批判の声も高まりがちです。 それが男性アイドルなら女性 視聴者 におもねったキャスティングがされたドラマだとして スイーツ(笑) ドラマ、女性アイドルなら同様に キモオタ 向けドラマとか、事務所がタレントを ゴリ押し したとしてゴリ押しドラマと呼ばれることもあります。 演技力のない薄っぺらいものとして、学芸会とかお遊戯劇と呼んで揶揄することもあります。
一方で、創作物に美男美女が多く描かれることから、おたくや腐女子、あるいは一部の 掲示板 などにいる ネット民 らはルッキズムに囚われた古い価値観の 残念 な人たちだ、あるいは加担者だとする批判もあります。 そうした批判の中には、「どうせおたくや腐女子などブサイクな 非モテ ばかりで、自分にないものを架空の世界に求めているのだろう」 といった、これはこれで剥き出しのルッキズムや差別丸出しのものもあります。 そもそもどんな目的で誰を推そうが大きなお世話です。
おたく・腐女子本人らの自分の容姿に対する考え方は、もちろん人それぞれです。 とはいえ一般に 自虐 しがちな人たちが少なくないため、実社会におけるルッキズムに肯定的な立場の人は少ないかもしれません。 おたく・腐女子に限らず自分の容姿に自信がある人など少ないし、見た目で評価されて傷つく経験を誰でも一度くらいは持っているのでしょうから、これは当然です。 しかし自分が推しているアイドルや マンガ・アニメ の創作されたキャラの姿にまでルッキズム反対の声を上げられ批判されると、そこに強い違和感は覚えることも多いでしょう。 その 作品 やキャラが好きだと公言しただけでルッキズムの加担者だ共犯者だと批判されても困るというわけです。
美男美女ばかりが登場するメディアや、ミスコン・ミスターコン批判
ルッキズム反対の意思表示は、ルックスに劣るとされる人への不公平な扱いだけでなく、優れた人に対する賞賛や優遇、あるいはそうした価値観や考えを流布・助長しかねないとされる行為に対しても行われます。 例えばミスコンテストやミスターコンテストといった容姿の優劣を判定し競う文化的な イベント や、アイドルなどの写真撮影会、大手メディアなどが美男美女を好意的に扱い、そうでない人物を笑いの対象にするような表現や演出 (容姿いじり) などに対する批判や反対です。 過度なダイエットや美容整形を推奨するような内容の番組や雑誌、美男美女をアイキャッチとして利用する広告や プロモーション は批判の矢面に立たされることが増えてきました。
これらはルッキズムを肯定し差別構造への加担・固定化 を促すものだといった部分だけでなく、ルックスの要件になりがちな 「男らしさ・女らしさ」 といったジェンダーバイアスの存在や、ひいては性の商品化 (性的客体化/ 人間を人格や意思を持つ主体ではなく性的な欲求を満たすモノのように扱う) を同時に行っているものとしても、時代を経るごとに厳しい目や強い批判に晒されるようになっています。
また容姿としばしば密接な関係を持つその他の 属性、例えば人種や性別、エイジズム (年齢に対する偏見) やセクシャリティやジェンダー (個人的な性のあり方や男らしさ・女らしさの規範や偏見)、あるいはエイブリズム (身体障碍に対する偏見) やディジーズ・スティグマ (病気 に対する偏見) なども、合わせて語られることが多いでしょう。
現在ではこれらをひっくるめて容姿を評価することそのものがポリコレに反するとされることもあります。 ポリコレとは人種や性別、性的指向、宗教、障碍、生まれ育ちといった違いに基づく偏見や差別、固定観念をなくし、すべての人に不快感や不利益を与えない中立的な表現や対応を目指す社会的公正さのことですが、個人の努力や意志とは無関係に決定される部分 (不可変的属性・宿真的属性) で差別や区別をするのは良くないという考えであり、容姿はその最たるものと考えられているからです。
社会や人々の意識変化に伴い、企業なども一定の美の基準 (痩せた体型や 金髪・白肌など) だけでなく、多様な体型や特徴を持つタレントやモデルを起用するなど、変化が生じています。 ミスコンなども、外見だけでなく内面や発信力を審査対象するなど時代に合わせた対応を見せていますが、個人的には内面の優劣を評価するなどはお為ごかしがすぎるし、むしろ容姿の評価より醜悪だと思うのですが、イベント存続のために行うきれいごとという意味も含め、苦渋の判断という部分もあるようです。
女性の容姿差別ばかりが問題視される姿勢に反論も
ルッキズム批判が急速に広がり、メディアなどが批判・攻撃 されたり美男美女が描かれる作品が批判される中で、表現の自由 を軽んじるものだとの批判も生じています。 またありのままの身体を肯定的に見るボディ・ポジティブやボディー・ニュートラルの考え方が社会に広まり大手企業などがプロモーションで肯定的かつ大々的に扱うようになると、思想の押し付けを感じて反対意見や不快感を覚えたとの声も生じるようになっています。
とくに黒人や LGBTQ+ のうち性自認が生物学的性別とは異なるトランスジェンダーの人々、肥満体の人物などが ファッション 関係の広告やテレビドラマ・映画などでことさらに目立つ形で起用されたり、原作の 設定 (例えば美男美女とか白人とか) を無視してこれらの人たちが選ばれるようになると、批判の声も大きくなりがちです。 原作や設定の意味がないし、創作物の中でまで現実と同じありのままの世界にする必要はないし、架空の世界で美しいものを観たいという欲求が差別的で間違ってると一方的に断罪されるのも不快だという意見です。 行き過ぎてむしろ逆差別にもなっているというわけです。
またルッキズム反対という概念そのものに対する疑義や批判もあります。 代表的なのは、頭が良い人や身体能力が高い人はそれぞれ学業や研究、スポーツなど活躍の場があるし称賛や尊敬の対象にもなり、また何らかの選抜でそれらの優劣だって厳しく問われ、かつそれを価値として対価を得ているのに、こと容姿に関しての活躍の場や称賛・選抜・価値や利益ばかりが批判されるのはフェアではない、ご都合主義 の ダブスタ (ダブルスタンダード/ 二重規範) ではないかというものです。
容姿における日々の身体的ケアやフィットネスといった努力はともかく、高額な化粧品や美容整形は 「金で買った」 という ネガティブ な感情を起こしやすいですが、それでいったら勉強やスポーツだって本気でやるなら大金がかかり、富裕層が有利になる点では同じです。 ルッキズム批判の一部に独善的で 攻撃的 な人がいることから、単にきれいごとをいって マウント を取りたいだけではないのか、あるいは容姿に劣等感を持つ人の嫉妬があるのではないかと邪推する人もいます。
これに対する再反論として、人の容姿は生まれながらのものであり、だから差別なのだとの主張もあります。 見た目で判断するなは能力主義の言い換えでもありますが、しかし生まれ (遺伝) が人の能力に与える影響の大きさは知性や身体能力だって同じです。 美しくあろうと努力している人はいっぱいいるし、また努力すればしないよりは本人の望みに近づくという部分も、それぞれで別に違いはありません。 むしろ知力や身体能力よりは容姿の方が、努力による変化量が大きいとする考え方もあります。 自己決定による努力で獲得あるいは維持している容姿が、その人の中身を表すものでなくて、いったい何なのでしょう。 違うのは努力している姿が、勉強やスポーツへのそれに比べて外から見えにくいだけです。
またルッキズム反対論者の中にはにタトゥー (入れ墨) への偏見や不当な差別への問題提起を行う人もいますが、タトゥーは現代にあってはおおむね本人の自由意思で入れるものであり、論理が矛盾しています。 もちろん生まれ育った 環境 の影響や一時的な精神的ストレスや困難から一種の自傷行為としてタトゥーを入れる人もいるので、タトゥー全てが完全な自由意思の結果、あるいは自己責任だとまでは思いませんが、そこまで擁護するとなると、個人の自己決定や覚悟とは何ぞやという話になってしまいます。
ルッキズム批判の主張が、もっぱら女性の 人権 保護ばかりに偏っていると思われがちな点も不信感を覚える部分です。 社会的に女性の方により容姿が求められがちだという現実があるとはいえ、女性アイドルは批判するけれど男性アイドルは批判しない、女性に対する容姿いじりは批判するけれど男性、とくに おじさん に対するそれは問題視しないどころかルッキズム丸出しで存在そのものを キモい などと誹謗するなどは、差別に反対なのではなく、単に自分が気にくわないものを批判するのにルッキズム反対を使っているだけなのではないか (ポリシーロンダリング)、あるいは何か他の理由があるのではないかと邪推されても仕方がありません。
男性は女性よりも容姿をあまり問われない (ルッキズム圧が少ない) のはその通りだと思いますが、逆に男性側には、女性と比べて身体能力や社会的地位や経済力などが求められがちです。 いずれも努力次第で変えることができるものですが、同時に個人の努力や意志とは無関係に決定されることも多いものばかりです。 これらが本人の努力や意志だけでどうにかなるのなら、そもそも貧困など存在しないはずです。 人の優劣を勝手に決めないという考えは良いのですが、それがなぜルックスばかりに集約するのか。
ルッキズムを論じる難しさは、これら社会構造的な公正・ジェンダー規範と、個人の自己決定や自己改善、価値観や表現の自由、さらに本人の努力ではどうにもならない格差や個人差と個々人の生理的な好き嫌いという、それぞれに解決すべき正当性のある価値観が衝突していることにあります。 またその他の偏見や差別と異なり、ほとんど全ての人が当事者です。 誰だって自分の容姿には悩みがあるし、傷つけられた経験だってあるからです。 おまけに全ての差別がそうであるように、人の尊厳に関わる重大事です。
いずれの立場を尊重するかで結論も変わるため、白か黒かみたいな単純化した正解はなじみません。 しかしルッキズム反対にせよポリコレにせよ、とくに ネット においては独善的で一方に振り切れた極論が 炎上 したり バズ って注目を集め鋭く対立しがちで、「ちょうど良い塩梅」「大人の解決」 が難しい点が物事を複雑にしています。 これはルッキズム反対派・容認派、あるいは 筆者 のような、どっち着かずの部分否定部分肯定・自称中立派についても云えることです。
ネットの普及により、ルッキズムは強まる一方だとも
ネットが普及し SNS を誰でもが使うようになると、ルッキズム反対の掛け声があちこちから聞こえて本人もそれを口にしながらも、自らはルッキズムを強く意識した行動を取りがちにもなっています。 スマホで写真を撮って 投稿 する場合もどう撮れば 盛れ るか、さらには写真加工アプリまで使って本人とはかけ離れた美化加工・修正を施すこともあります。
ネット登場以前は、自分とは縁もゆかりもない 一般人 の顔や容姿など、メディア報道や街中、あるいは学校や職場といった閉じた人たちの間でのみ見られ、また比べられるものでした。 映画やドラマに出てくる芸能人が美男美女だったとしても、あくまで自分たちとは違う世界の人たちといった印象です。 その後雑誌の世界で読者モデル (読モ) やストリートファッションの紹介といった文化が生じて、自分たちに比較的近い人たちの容姿を見る機会が生じますが、この段階でもやっぱり雑誌というメディアを通じての接触で、あくまで別世界の話です。
ところがネットや SNS が普及すると、自分たちと全く同じ一般人の間でも、美男美女が当たり前にたくさんいて、同じスマホの SNS の 画面 で並べて見比べることになってしまいます。 ある程度の年齢になれば自分なりの基準を持って 「人は人、自分は自分」 あるいは 「もう見た目とか今さらどうでもええわ」 と割り切れるとしても、若い人たちにとっては時にコンプレックスとなって心にのしかかってしまうものなのでしょう。 容姿の良し悪しは相対的なものでもありますが、身の回りの人だけでなくネットやスマホを通じて自分と同世代の一般人が キラキラ している様を TL で毎日見せつけられる時代は大変だなという感じがします。
「外見より中身が大事」 あるいは 「美人は3日で飽きる・ブス は3日で慣れる」「男は度胸・女は愛嬌」 などなど、人の外見より内面を重視する意見はおおむね肯定されます。 肯定まではしなくとも、それらが容姿と対等程度の価値のあるものとする考えもあります。 しかしよほど達観あるいは開き直った人でなければ、できるだけ自分をよく見せよう、少なくとも自分が容姿で気にしている部分、コンプレックスを感じるところは隠したいと思うものです。 このあたりは他者攻撃さえしないなら、矛盾とかダブスタ、言行不一致 というよりは心の奥の切実な本音と建て前といった部分もあります。
美醜で業務上のえこひいきや格差をつける、他人の容姿をいじったり笑いものにする、あるいは容姿に少しでも磨きを掛けようと頑張っている人たちに対する冷やかしや加害や差別さえしなけれは、美人が好きだ イケメン が好物だで別によいのではないかと思います。 ノーベル賞受賞者や金メダリストを称賛したからといって、知的・身体的な困難を持つ人を差別しているわけではないように、美男美女を称賛したからといってそうでない人を必ずしも差別しているわけではありません。 もちろんこれらは本人が意図するしないに関わらず明確に 「地続き」 だと思いますが、そうだと知った上で人を見る時は立体的に、外見以外の部分にもちゃんと心を配って、節度を持って向き合えばよい話です。
日本には表現の自由も思想信条の自由もあるので、ルッキズム反対論者のいう 「〇〇を助長する」「加担している」「影響を及ぼす」 といった論があってももちろん良いですが、それに対する批判も尊重したいものです。 正しさとか 正義 などいったものは相対的なもので、一方に振り切れずに賛成反対で議論をする方が 健全 です。 とくに表現規制に関する部分では、声の大きな活動家らの意見が広まりすぎて、忖度が忖度を呼んで行き過ぎた 自主規制 に向かうことは避けたいものです。 それでは表現の多様性がなくなってしまいます。 個人的にはルッキズムを肯定・助長するとする作品へのクレームやキャンセルの言説ではなく、ルッキズム反対の立場から作った新しい作品を見たいものです。
「看板娘」 という言葉
かつては 「看板娘」 という言葉がありました。 飲食店などに見目麗しい女性店員さんがいると、それ目当ての男性客が訪れて店が繁盛するといった程度の言葉です。 対義語として看板息子といった言葉もありましたが、現在ではどちらもすっかり死語のようになり、概念だけは残って可愛らしい猫ちゃんがいると招き猫よろしく 「看板猫」 などと呼ばれています。
頭が良くてテキパキと事務処理を進められる人、力持ちで荷物を迅速に運べる人、あるいは性格が明るく ポジティブ で職場の潤滑油・ムードメーカー となって円滑な就労環境を創れる人は称賛され評価もされるけれど、かわいい、あるいはかっこいい容姿で職場を和ませたりお客さんを呼ぶ看板娘や息子だけは パージ やキャンセルがされるのは、個人的には不健全な気がします。 そもそもそれでお店が利益を上げていながら待遇が変わらないのなら、いわば 「容姿価値の搾取」 になってしまいますし。 かといってそれに対価を支払ったら性の商品化扱いにもなりかねませんし、顔採用されたり同じ能力の人より優遇されるのも、それはそれで不公平にも感じます。
ルックスのあれこれは、性的なまなざしや性行為などとも容易に結びつけられ、元から批判されやすい構造にあります。 しかも人の容姿は知力や身体能力と違って努力が見えにくく、かつ優劣の数値化もしづらく、また好き嫌いなどは相対的な上に理屈ではなく感覚の問題でもあるので、明確な線引きは難しいし、そう簡単に 割り切れ るものでもないのでしょう。 人間のある種の業や バグ として、時に傷つけ傷つけられながら、付き合っていくしかなさそうです。 あるいは全知全能で人間や社会はこうあるべきとの目指すべき姿を指し示し自らも実践するすごい人がどこかにいるのかも知れませんが、現段階では筆者の勉強不足もあってまだ見つけることができていません。





